仕事は「好き」で選ぶか「得意」で選ぶか?


「好き」を仕事にするか、「向いている」を仕事にするか

仕事選びの基準について、「好きなこと」と「向いていること」のどちらを重視するべきかという議論がよくされます。 多くの人が迷うテーマだと思います。私もです。 特に、限界ポスドクの私は、いつ職を失うかわからないので、転職を考えることに関しては『ガチ』です。 それと同時に、大学の研究員という比較的「好き」を糧に仕事をしている立場である以上、転職した時に同じぐらい「好き」だと思えることに取り組めるのかというのは気になるところではあります。

「好き」を仕事に

好きなことだからこそ圧倒的な努力ができる。そして、圧倒的な努力は必ず結果につながる。 好きだからこそ長期間継続でき、その継続こそが最大の競争優位性になる。 たしかに、多くのアスリートやアーティストは、この視点を体現していると思います。 好きであるからこそ、クレイジーな努力を楽しむことができ、その結果大きな成功を手に入れています。 なので好きは努力を継続する上で大きな「燃料」になるのは間違いないと思います。

「向いている」を仕事に

特別好きなことではなかったが、自分の才能や適性のおかげで結果が出て、結果が評価されるにつれて、その仕事が好きになった。 成果が出ることで自己肯定感が高まり、『勝てるから好き』『成果を出す自分自身が好き』という好循環はわかりやすいです。

対戦ゲームで考えるとよくわかります。いくらそのゲームが好きでも、まったく勝てない状態では楽しめません。 小さな成功体験が積めるからそのゲームが面白いと感じるんだと思います。 現実の仕事も同様です。自分の適性や得意分野を活かすことで結果が出るようになり、それが仕事を好きになるきっかけになります。

私がこの考え方に触れたのは、ドラゴンクエストダイの大冒険を見ていたときでした。氷炎将軍フレイザードという的幹部に 「オレは戦うのが好きなんじゃねぇんだ…勝つのが好きなんだよォォッ!」という言葉があります。 少年漫画的には、正々堂々戦う主人公を善とし、勝つことに手段を選ばないフレイザードを悪とする二項対立のように描かれています。 しかし、この時に、戦うこと(走ること、働くこと etc…)そのものが美徳なのではなく、自分が勝てるということ(結果を出すこと)を美徳とする価値観に気付かされて驚いた記憶があります。 余談ですが、作中のこのような言葉の数々はフレイザード構文としてミーム化しているので興味があれば調べてみてください。

好きだけでは飯が食えないんスよ

「好きではない仕事に人生の時間を割くのはもったいない」という意見もあります。 これは正直反論が難しい意見です。人生の有限性を考えれば、自分が情熱を持てる分野に時間を投資したいと思うのは自然な感情です。 しかし、それにも限度があると思います。 私は多分走るのは好きですが、現時点でプロとして活躍できるほどの能力がないことは確かです。 スポーツは残酷な程に適性というものを顕著にさせてきますが、ビジネスでも程度の差はあれど確実にあるものです。

例えば、適性を「1日の成長率」、努力を「日数」として捉えてみます。 向いていることの1日の成長率を「1.5」とし、3日努力すると、その結果は 1.5 × 1.5 × 1.5 = 約3.375 に到達します。 一方で、向いていない場合の1日の成長率を「1.1」とすると、 3.375に到達するには4倍以上の日数が必要です。 これがもっと極端で「1.001」とかの適性だとすると、おそらく寿命のほうが先に来てしまいます。

株式投資に例えるなら、「好き」は投資期間、「適性」は1日あたりのリターンのようなものでしょうか。期間をいくら伸ばしても、日々のリターンが小さければ望んだ成果を得る前に人生が終わってしまいそうで目眩がします。

残酷かもしれませんが、「好き」という気持ちは燃料にはなれますが、エンジンにはなれないんだと思います。

中庸が大事。だが「向いている」仕事を選ぶ方が幸せだと思う。

両方の視点にそれぞれのメリットがありますが、個人的には「向いている」ことを仕事にする方が現実的だと考えています。好きという感情は時間や労働環境で変化したり、また好きであっても適性がなければ成果を出すことは難しいです。一方、向いていることを選ぶことで、成果を出しやすく、成果が出ることで仕事そのものが好きになることは十分あるからです。

また、「人間の『好き』や『得意』という感覚は普遍的なものではなく、状況や人生のライフステージで変化するものかと思います。ただし、一般的に『向いている』は比較的変化しにくい一方で、『好き』という感情は変化しやすい傾向があると考えます。ある時点で好きだった仕事が、年齢や経験を経て向いていないと感じることもあれば、最初はあまり好きでなかった仕事が徐々に適性を感じるようになり、結果好きになることもあるように思います。

もちろん、人生の満足度を考えれば「好き」も重要ですが、仕事というのはプロとして成果を出すことが求められる場です。成果が出やすい「適性」をベースにキャリアを築くことが、長期的な成功と満足感につながると考えています。

ちなみに今回のテーマは、私が論文書くのに詰まって非常に困ったために書いています。 好きなことに適性があることが天職だと思います。胸を張って天職だと言えるものを探したいものです(´・_・`)

短編:幸福度測定装置

「ここで待機していてください。検査結果が出るまで約十分です」

検査官と呼ぶべきか、技師と呼ぶべきかわからない白衣の女性の後ろ姿を見送った。

頭に装着された脳波測定器、通称「幸福度測定装置」は思ったよりも軽い。商品名として登録されているのは「HappyMetrics™」だが、社内では誰もそう呼ばない。

開発者の意図など、使用者の言語習慣の前ではあっけなく崩れ去る。言葉とはそういうものだ。

窓の外では、小さな公園で子供たちが無邪気に遊んでいる。彼らは自分たちの幸福度が数値化されることなど考えもしないだろう。

「量子物理学なんて、そもそも幸せになれる学問だったのだろうか」

独り言のつもりだったが、声に出ていたらしい。測定器の感度が上がる。

十年間務めた量子物理学の研究室を辞めて三ヶ月が経っていた。業績と呼べるほどでもない論文数。インパクトファクターという学術界の通貨価値で言えば、私はほとんど無一文同然だった。そしてテニュア(終身在職権)などという魔法の言葉は、私からどんどん遠ざかっていった。

三十七歳のある日、気がついたら履歴書を書いていた。履歴書の送り先は「幸福度測定装置」という奇妙な装置を開発するベンチャー企業だった。 創業者は学部時代の友人だった。

「物理の知識を持つ人間が欲しい」

そう言われた時、私は一瞬だけ誇らしさを感じた。でも実際のところ、私がその求人に応募した理由は、次の給料が必要だったからだ。 研究者という肩書きは捨てられなかったが、それを養う餌は尽きていた。

「お待たせしました」

白衣の女性が戻ってきた。手にはデータシートがある。それが私の人生の成績表のように思えた。

「結果をご説明します。この装置は人間の幸福度を測定するものです。サンプルとなる方々に使用していただき、精度を高めています」

彼女はデータシートを広げた。紙媒体だ。この時代になんとアナログな。データの改ざんを防ぐためだろうか。

「あなたの三ヶ月前の幸福度は47.3でした。これは一般平均値の55.2を下回っています。数値だけで言えば、あなたは『不幸』に分類されていました」

平均以下。それは研究者としての評価と同じだった。 慣れたつもりでいた落第生の烙印が、不愉快に皮膚を伝った。

「しかし、現在の数値は63.8まで上昇しています。これは平均を8.6ポイント上回ります。統計的に有意な上昇です」

私は首を傾げた。疑問文を発する前にすでに脳内では仮説が立っていた。 「環境変化による一時的な上昇だろう」と。

「私、この会社に来て幸せになったんですか?」

白衣の女性は微笑んだ。その表情は本物だろうか、それともプロトコルに従った接客用の笑顔だろうか。

「数値は嘘をつきません。研究室を辞めて心配だったでしょう?」

確かにそうだった。給料は下がり、肩書きも「研究補助員」という曖昧なものになった。 それなのに、不思議と毎日が楽しかった。この矛盾に気づいていなかったわけではない。単に考えないようにしていただけだ。

「この装置の改良に関わるうちに、あなたの脳波パターンに変化が見られました。特に創造性と満足度の指標が顕著に向上しています。主観と客観の両面から、あなたは幸福度を上げているんですよ」

言われてみれば、確かに。研究室では量子の不確定性に悩まされていたが、ここでは具体的な問題を解決する喜びがある。結果が見える。

「あなたの提案した回路修正により、装置の精度が24%向上しました。経営陣も高く評価しています。これはあなたのファイルに記録されています」

研究室と同じ数値化された評価だが、ここでの評価は重荷に感じない。

翌週、創業者の友人が私を呼び出した。

「正式に開発部門のチーフになってほしい。給料は前職の二倍まで上げられる」

二倍。その数字の魔力。しかし不思議なことに、私の頭に最初に浮かんだのは給料のことではなかった。「測定装置の精度をもっと上げられるかもしれない」という期待だった。

家に帰ると、妻が珍しく晩酌の準備をしていた。いつぶりかの光景に、なんだか大事なことを忘れていたのではないかと身構えてしまった。

「どうしたの?」と私が問う。

妻は屈託なく笑った。

「あなたが最近、楽しそうだから。研究室にいた頃は、いつも疲れた顔で帰ってきたのに」

そうだったのか。自分では気づかなかった。それとも気づかないふりをしていたのか。 いずれにしても、妻の観察眼は「幸福度測定装置」より正確だったのかもしれない。

その夜、久しぶりに妻と長話をした。量子物理学の話ではなく、日常の話を。それがなぜか楽しかった。

一週間後、再び幸福度測定器をつけた。自主的に。 数値は67.2に上がっていた。3.4ポイントの上昇。測定誤差の範囲かもしれないが、それが嬉しかった。

「測定担当の白衣の女性は?」と私が尋ねると、助手が答えた。

「彼女なら別の部署に異動になりました。彼女の幸福度数値が低かったんです。59.4。基準は超えていますが、連続して下降傾向だったため」

私は不意に彼女のことが気になった。その正体が共感か好奇心かは特定できなかった。

私はわからなかった。この装置の精度は本当に高いのだろうか。それとも単なる思い込みを数値化しているだけなのか。 あるいは測定という行為自体が被験者の意識に影響を与え、結果を歪めているのではないか。観測による量子状態の崩壊のように。

だが、不思議なことに、その疑問自体が私には楽しく感じられた。 かつての研究室では懐疑的な思考が生まれることはストレスだったのに、今は好奇心につながる。 「なぜだろう」という問いが、「苦しい」から「楽しい」に変わっていた。

三ヶ月後、私たちの装置は大手健康機器メーカーに高額で取引された。社員全員にボーナスが支給され、私のチームは新製品開発の中核に据えられた。 その日、帰宅途中に寄った測定ルームで、最後の数値を見た。

74.8。

なぜこれほど上昇したのか。科学的な説明はできない。ただ、毎朝目覚めるのが楽しみになったことは確かだった。

量子の世界は美しかったが、触れることはできなかった。いま私は、人々の目の前で確かな変化を作り出している。

測定器を外しながら考えた。

適性とはなんだろう。

好きだと思っていたことが向いていなかったのかもしれない。 そして向いていることを見つけたとき、それは自然と好きになるのかもしれない。

部屋を出ると、白衣の女性が廊下で私を待っていた。

「実は私も開発部に異動になりました。あなたと一緒に働けることを楽しみにしています」

彼女の表情は明るかった。幸福度測定装置を持ち歩いていれば、今の彼女の数値が分かるのだろうか。 だが今は、その数値に意味がない気がした。

私は微笑んだ。もう一度測定器をつけたら、数値はさらに上がるだろうか? でも、もういいや。その数値は、私にはもう必要がなかった。