
トレッドミルのすゝめ
エッセイ:トレッドミルのすゝめ
僕は走る。だから僕は存在する。
薄暗い窓の外では、雪が音もなく降り続けている。北国の冬は長く、そして時に残酷だ。
一歩外に出れば、そこはもうすっかり白い世界で、僕のジョギング用のシューズはまるで無力な哲学者みたいに、その上で滑りまくる。
接地の感覚は曖昧で、踏んだ雪は音もなく崩れていく。まるで記憶の底に沈んだ古い夢みたいに。
もちろん走れないことはない。 でもそれは「走る」というより、「自分をなだめながら白い地面と対話する行為」に近い。 1kmあたり5分のペースですら、ある種の無謀な挑戦に思えてくる。 転ばないように身体の動きはどんどん小さくなり、やがて僕は、自分が走っているのか、ある種の儀式をしているのか、わからなくなる。
僕のランニングフォームは少し変わっている。地面との接地時間を長めに取り、地面をしっかりと押し出すようなフォームなのだ。 これが普段は長距離を走るのに適しているのだが、雪の上ではまるで砂の城を建てようとするような、はかない努力に変わる。 力を入れれば入れるほど、足元の雪は崩れていく。
札幌の凍結路面で、時々バランスを崩しながら「くそっ」と独り言を呟いている男を見かけたら、それはたぶん僕だ。 冷たい北風に乗って、そんな不毛なつぶやきは誰にも届かない。
去年の冬は、僕は完全に折れた。「これはもはやジョギングではない。ダンスだ」と言って、僕はランニングをやめて、本ばかり読んでいた。 走るのをやめた代わりに、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』を読み返したりもした。 無関係だけれど、そういうものだと思う。
でも今年は少し違う。強度だけでなく、量をこなすことで得られる能力があることに気がついた。 マラソンのような長距離走では、運動量を多く確保することが何よりも大切なのだ。
ある日、僕はふと思い立ってトレッドミルに乗ってみた。 ランニングマシンのことだ。それは、まるで「走ることの代用品」だと思っていたけれど、やってみると意外に快適だった。 いや、正直に言えば快適すぎた。自分が何をしているのか、少し戸惑うくらいに。
最初は「雪道を走るよりはマシだろう」という消極的な選択だった。 しかし過去三ヶ月間、ほぼトレッドミルだけで月に400km、週に100kmを走るうちに、僕はこの機械に隠された意外な魅力を発見した。
第一に、着地の衝撃が少ない。これは本当に大きい。アスファルトのように身体にガツンとこない。 柔らかく、静かに、足元を受け止めてくれる。 まるでよくできたエッセイの一節のように、痛みはなく、でも記憶には残る。 特に僕のような若くないランナーにとって、故障のリスクを減らしながら運動量を確保できることは、単なる便利さを超えた恩恵だ。
第二に、天候に左右されない。 外では吹雪いていても、あるいは雨が降っていても、ジムが開いていれば走れる。天気予報に一喜一憂する必要がない。 僕が走るか走らないかは、空模様ではなく、僕自身の気分と靴ひもに結び目があるかどうかだけで決まる。 これは心理的にも大きい。計画通りに走れるという安心感は、ランナーにとって貴重な支えになる。
第三に、ウェアが軽い。ジムではTシャツ1枚で走れる。 それだけで、何かこう、肩の力が抜ける。 冬のランニングウェアというのは、防寒性に振り切っていて、僕には少し重すぎる。 伸縮性や軽量性を犠牲にしていることが多く、体が温まってきても脱ぐことができない。 まるで自分でかぶった仮面を、どうしても外せなくなった道化師のように。 一度選んだら最後、その選択に付き合っていくしかない。 冬のランニングウェアとはそういうものだ。好むと好まざるとにかかわらず。
では、トレッドミルにデメリットはないのか?
ある。しかもそれは致命的かもしれない。
退屈だ。圧倒的に。
これは仕方がない。
外の風景は変わらないし、首輪のないボーダー・コリーが意味ありげな目で僕を見つめたりもしない。
「トレッドミルで10km走った」と話すと、ほぼ間違いなく返ってくる質問は「退屈じゃなかった?」というものだ。 僕は20km以上走ることも珍しくないので、その反応はさらに強烈になる。 僕自身、時間を有効に使うために様々な試みをしてきた。そのいくつかを紹介しよう。
音楽鑑賞
これはまあ、定番だ。 僕もさまざまな音楽を聴きながら走る。 バッハの『ゴルトベルク変奏曲』は、トレッドミルの単調なリズムと意外によく合う。 あるいはマイルス・デイヴィスの『In a Silent Way』も悪くない。 ただ、ときどきふと意識が途切れた瞬間、背後から何かの“空白”のようなものが這い寄ってくるのを感じる。 夜中に目を覚まして、時計を見たらまだ4時だったときのような、あの感じだ。僕はああいうのがあまり得意じゃない。 だから、音楽は単体で使うより、何かと組み合わせたほうがいい。 言ってみれば、優れたバーテンダーが作るカクテルのベースみたいなものだ。 単品で飲むより、何かを足すことで輪郭がはっきりする。
書籍朗読(Audible)
ふと思い立って、トレッドミルの上でカート・ヴォネガットの『タイタンの妖女』を聴いてみた。 でも、あれは走りながら読むにはちょっと重たすぎた。 猿回しの芸を見ながら、ベートーヴェンを聴くようなものだ。 僕はあっさりと音声を止めて、代わりにマイルスを流した。
動画鑑賞
これが案外いい。ジムのトレッドミルに備え付けのモニターか、自分のタブレットで動画を見ながら走ると、時間があっという間に過ぎる。 僕はスマブラの世界大会を観ながら走っている。真剣勝負のゲームの映像を見ていると、自分も何かに参加している気がして、少しだけ孤独が和らぐ。 時には古いジャズライブの映像や、村上龍原作の『69』の映画版を見たりもする。 話の筋を追う必要のない、視覚的な刺激が強い動画が特に良い。 姿勢にさえ注意すれば、これは悪くない選択だ。
解脱
一番いいのはこれかもしれない。何も考えずに、ただ走る。 ただ自分の呼吸と足音に意識を合わせていく。 世界が遠くにぼやけて、時間の輪郭が曖昧になっていく。 気がつけば、30分が経っている。 これを僕は「解脱」と呼んでいる。 仏教的な意味はない。ただ、なんとなく語感が良かったからそう呼んでいるだけだ。
マラソンを走るときの「ランナーズハイ」に似た状態になることもある。 思考が整理され、アイデアが浮かぶこともある。 現代社会では常に脳が情報で溢れているが、あえて何も考えない時間を作ることで、精神のバランスを取り戻せる気がする。 僕はこの「解脱」モードと音楽鑑賞を組み合わせて走ることが多い。 音楽はバックグラウンドノイズとなり、意識は半分空っぽの状態で走り続ける。 それが僕にとっての、ちょうどいい距離感なんだと思う。
電子書籍(予定)
もうひとつ試してみたいのは電子書籍だ。 Bluetoothでページをめくれる指輪型のリモコンがあるらしい。 それを手に入れたら、僕もまた活字の世界で走ることができるかもしれない。 それがレイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』でも、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』でも、たぶんかまわない。 あるいは古い『ジャズ・レビュー』誌でもいい。 時間の有効活用という点では、最も理想的かもしれない。
結局のところ、僕がトレッドミルで発見したのは、「走ることの本質」だったのかもしれない。外の世界の風景や刺激がない分、走るという行為そのものと向き合うことになる。そこには新たな気づきがあった。
この三ヶ月間の練習で、僕のフルマラソンの記録は2時間54分から2時間38分まで向上した。それが偶然なのか、トレッドミルのおかげなのか、あるいは他の何か――たとえば僕の中の小さな執念のようなもの――のおかげなのかはわからない。
でも、まあ、悪くないことだと思う。走るというのは、結局のところ、たくさんの”わからないこと”と仲良くする行為なのかもしれない。少なくとも、今のところ僕は、それでうまくやっている。
外では雪がまだ降り続けている。明日も僕はトレッドミルの上を走るだろう。そしてその単調な動きの中に、また新しい何かを発見するかもしれない。
何かが始まるとき、それはいつも静かだ。
ショート:解脱式トレッドミル
北国に住む男は熱心なランナーだった。
男の住む街は、冬になると一面の銀世界と化し、走路は積雪と凍結に覆われた。
ある日のこと、凍結した歩道でまたも転倒した男は、自宅へ引き返す途中、新しくオープンした「イノベートジム」の前を通りかかった。
店頭には大々的に「次世代トレッドミル導入!」と書かれていた。
「まあ、試しに入ってみるか」
積雪路面にうんざりしていた男は会員登録をし、さっそく最新型トレッドミルを試すことにした。
それは「無限走行装置TM-2025」と名付けられたトレッドミルには不釣り合いな光沢のあるマシンで、男が乗り込むと、前方の大型スクリーンには森や海辺の風景が映し出された。
「こんにちは、ランニングコースをお選びください」とマシンが話しかけてきた。
男は「森林コース」を選び、走り始めた。マシンの傾斜は地形に合わせて自動で変化し、足を踏み込むたびに腐葉土を思わせるクッション性のある応答が返ってきた。
アスファルトで走る時の衝撃がなく、まるで柔らかい芝生の上を走っているような感覚だった。
「これは快適だ」と男は思った。
翌日も、そしてその翌日も、男はジムに通った。週に100キロ、月に400キロ。外を走るよりもはるかに効率よく距離を稼げた。そして、たった3ヶ月でマラソンの記録は2時間54分から2時間38分へと劇的に向上した。
男はTM-2025の前に立つたび、トレッドミルにある「解脱モード」を選択するようになっていた。
他の会員たちは音楽を聴いたり、動画を見たりしていたが、男はただ前方の風景を見つめ、呼吸と足音のリズムだけに意識を集中した。
ある日、いつもの「解脱モード」で走っていると、男はふと気がついた。
スクリーンに映る風景が、かつて自分が実際に走ったことのある景色と同じなのだ。
「おかしいな」と思いながらも走り続けると、スクリーンの中に見覚えのある人影が現れた。
よく見ると、それは男自身だった。いや、わずかに若い自分だ。 驚いた男がマシンを止めようとしたとき、スクリーンの中の自分も立ち止まり、振り返った。そして、まるで男に気づいたかのように手を振った。
男は慌てて手を伸ばした。しかし、緊急停止のボタンを押すことは叶わず、彼の指先はスクリーンの映像へと吸い込まれていった。
「不思議だな…」
翌朝、ジムのスタッフが開店準備をしていると、TM-2025のスクリーンに見慣れた風景が映し出されていた。そこには男らしき人物が走っている。スタッフが不思議に思ってスクリーンに近づくと、画面の中の男は振り返り、笑顔で手を振った。
男は二度とジムに現れなかった。しかし、スタッフによれば、誰もTM-2025を使っていない深夜でも、時折スクリーンには男の姿が映り、無限の景色の中を走り続けているという。
その後、TM-2025の売り上げは急増した。ユーザーたちは口々に同じことを言う。
「外を走るより快適だ」
「故障知らずになった」
「まるで解脱したような気分になる」
誰も気づかなかったが、マシンの製品紹介には小さな注意書きがあった。 「解脱モードの長時間使用は、現実との境界を曖昧にする場合があります」