ポスドクとお笑い芸人は、夢の墓場で握手する


ポスドクとお笑い芸人は、実はとても似ている。

どちらも「好き」を貫いた結果、気づけば崖の上で踊っている人種たち。

「研究が好き」「人を笑わせるのが好き」と炎を燃やし、周りが就活していくなか、「いや、俺はちょっと違う道を行くんで」と斜め上を選び、そのまま数年が経った。 そして「そろそろ潮時かな…」と思いつつも、「でも来年、チャンスが来そうな気がする」という根拠なき期待を観測している。

「もう少しやればいける気がする」病

これは末期症状です。ポスドクも、芸人も。 「次の科研が通れば…」「今度のライブで跳ねれば…」 希望はいつも未来にあって、現在はずっと準備期間。 気づけば履歴書に空白だけが増えていく。

食えなくはない。でも、割に合わない。

ポスドクは見習い芸人よりは給料をもらっているかもしれません。 でも「自分の努力や価値が正しく報われている」と感じられる瞬間は、たぶんそんなにない。 「自分、何してるんだっけ?」と我に返る瞬間の多さは、そう違わないはずです。

「やめられないとまらない」病

「好き」は救いであり、呪いでもある。なぜここまでして続けるのか。 誰も評価してくれないし、かといって貯金もできない。 だれかにやれと言われたわけでもない。 でもなぜかやめたら死ぬ気がする。

多分「好き」で始めたことがもはや人生の一部になっていて、 失えば自分が空っぽになる気がする。

だからこそ「いつか」と「次こそ」に、人生を賭けている。

短編:『夢の墓場』

生きていくには「ここ」から脱出するか、「ここ」に留まるかの二択しかない。 そんな当たり前のことに、ポスドクは三十八歳になってようやく気づいた。 研究室の窓から見える夕暮れは、十年前と変わらない色をしていた。 ポスドクは論文の査読結果を見ながら、無意識にコーヒーカップをクルクル回していた。 「結論の新規性が不十分」「先行研究との差異が明確でない」「より包括的な検証が必要」 また落ちた。もう何度目かわからない。 「次の投稿までに、ここをもう少し詰めれば…」そんな言葉が、脳内で無限ループしている。 「あと、もう少し」自分を鼓舞するように無意識に出た言葉だった。 その「もう少し」がいつまでも終わらないことを、ポスドクは知っていた。 博士号を取得してから七年。かつての同期は皆、それぞれの場所で根を下ろしていた。 SNSに流れてくる彼らの投稿—家族写真、マイホーム、昇進報告—を眺めながら、ポスドクは最近の論文が引用された回数を確認する。まだ二回だ。 「査読者B、お前、絶対俺の競合研究室だろ」 独り言を吐きながら、ポスドクは新たな研究計画書に向き合っていた。

同じ頃、東京の片隅にある小さなライブハウスの楽屋裏。 汗で濡れたタオルが床に投げ捨ててあった。エアコンは故障したまま。 芸人(三十九歳)は鏡の前に座り、メイクを落としていた。今日も客席から笑いが起きなかった。 かろうじて最後のネタでようやく小さな反応があったが、それは同情の笑いか、気まずさを紛らわせるためのものだったかもしれない。 隣では若手コンビが大きな声で笑い合っていた。今日のライブの反省会だという。彼らはまだ二十代前半。「いつか売れる」という言葉には、若さゆえの無邪気さが漂っていた。 「お疲れ様でした」と店長が近づいてきた。「次回のステージですが…」 言葉を濁す店長の表情に、芸人は答えを読み取った。もう出演依頼はない。 「若い子たちに場所を譲るときかもな」 店長の目は既に次の若手に向けられていた。 トイレに駆け込んだ芸人は、個室の中で携帯を取り出した。もう十年前に芸人を辞めた相方に電話をかける。 「今日も全然ダメだったよ。もう声かけてくれる店もなくなりそうだ…」短い沈黙の後、声が明るく変わる。 「でも、次のネタ、めちゃくちゃいいの考えたんだ」 電話を切った後、芸人はその言葉が希望なのか、ただの現実逃避なのか、自分でもわからなくなっていた。 壁に貼られた芸人養成所の広告が目に入る。自分が通っていた頃と同じ文句。「あなたの夢、全力でサポートします」 チラシの隅に、卒業生の成功率が小さな文字で書かれていた。3%未満。 スマホでは相方が普通のサラリーマンになった後の家族写真がSNSに流れてきていた。

不思議なことに、その夜、ポスドクと芸人は同じ夢を見た。 二人は白い霧に包まれた広場に立っていた。周りには無数の墓石が並んでいる。足元からは冷たい風が立ち上り、霧を揺らしていた。 よく見ると、それぞれの墓石には人の名前ではなく、言葉が刻まれていた。 『ここに眠る ノーベル賞受賞の夢』 享年63歳11ヶ月 論文数:127本 最高被引用数:48回 死因:「革新性の欠如」 『ここに眠る 教授ポストの夢』 享年47歳6ヶ月 ポスドク歴:19年 応募数:218件 死因:「適任者が他にいました」 『ここに眠る 単著出版の夢』 享年51歳2ヶ月 執筆期間:12年 投稿回数:31回 死因:「市場性に欠けます」 『ここに眠る NHK出演の夢』 享年44歳8ヶ月 オーディション回数:52回 最終選考:3回 死因:「オンエア映えしない」 『ここに眠る M-1優勝の夢』 享年36歳0ヶ月 予選敗退:11回 準決勝進出:1回 死因:「時代に合わないネタ」 『ここに眠る 冠番組の夢』 享年41歳4ヶ月 テレビ出演:56回 レギュラー:0回 死因:「視聴率が取れない」 『ここに眠る 文学賞受賞の夢』 享年42歳5ヶ月 出版作品:2冊 最高部数:1200部 死因:「文章に独自性がありません」 『ここに眠る オリンピック出場の夢』 享年28歳2ヶ月 大会出場:地方大会23回 全国大会1回 死因:「才能の限界」 それぞれの墓には誰かが供えた花が置かれ、線香の煙が絶えることなく立ち上っていた。芸人は足を止め、M-1優勝の墓石に目を凝らした。 墓石の裏側には小さな文字で、数え切れないほどの名前が刻まれていた。おそらく同じ夢を見た者たちの名だろう。 「君も、か」と芸人が声をかけた。 「ああ、私も」とポスドクは答えた。 二人は見知らぬ者同士だったが、なぜかそこにいる理由を理解していた。これは「叶わなかった夢」の墓場だった。 「面白いよね」と芸人が言った。「みんな『好き』で始めたのに、いつの間にか『好き』に縛られてる」 ポスドクは自分の研究ノートの初ページを思い出した。大学院に入ったばかりの頃、純粋な知的好奇心から書き始めた問い。それがいつしか自己証明のための闘争に変わっていた。 「君は覚えてる?」とポスドクが尋ねた。「最初に研究を好きになったきっかけを」 芸人は目を閉じた。 「俺も同じだよ。いつからか、人を笑わせたいんじゃなくて、評価されたいだけになってた」 二人の前に、まだ言葉が刻まれていない新しい墓石が現れた。 表面は磨き上げられ、何かが刻まれるのを待っているようだった。 「ここに私たちの夢を埋めますか?」と芸人が聞いた。 ポスドクは首を横に振った。「いいえ、まだ埋めない」 芸人は自嘲気味に笑った。「そうだよね。だって、来年、チャンスが来そうな気がするもん」 ポスドクも苦笑した。「根拠はないけどね」 二人は墓石の間を歩き続けた。 「また、ここで会うかもね」と芸人が言った。 「もし、私たちがまだ諦めてなかったら。ね。」とポスドクが付け加えた。 誰も見ていない場所で、二人は夢の墓場の中で握手を交わした。それは諦めの握手ではなく、奇妙な連帯感から生まれた握手だった。

目が覚めると、ポスドクの机の上には新しい研究計画書が広げられていた。芸人のスマホには新しいネタのメモが残されていた。 二人は知らない。彼らがまた同じ夢を見ること。

二人は知らない。あと何年「好き」という名の呪いに囚われ続けるのかを。

そして、それが「呪い」であると同時に、二人を生かし続ける唯一の「救い」でもあることを。

崖の上で踊り続ける二人。足元は砂利が崩れ、いつ落ちてもおかしくない。 それでも踊りを止めることの方が、崖から落ちることよりも恐ろしい。 踊りが止まった瞬間、自分という存在も消えてしまうような気がしてならない。 「もう少しやればいける気がする」 その言葉が、今日も二人を崖の上で踊らせ続ける。