教養で人を殴らないでください


「教養」という言葉が、肌に刺さる小さな棘のように感じられるようになったのは、大学生の頃からだ。正確な時期は覚えていない。それ以前の私は、教養というものに曖昧な憧憬を抱いていた。教養ある人は会話の達人で、引き出しの多い魔法の箱のようだ。沈黙が流れれば、ウィットの効いた小話で場を温める。例えば「アダム・スミスの『見えざる手』は寿司の構造と似ていてね」などと(真偽はさておき)、知的で優雅な印象を抱いていた。

しかしある夜、酒の匂いが漂う居酒屋で、私は気づいてしまった。一人の男がソクラテスから江戸の寺子屋、果てはアイビーリーグの序列までを滔々と語る。彼の言葉は滑らかで、誰も遮らなかった。だがその時、私は奇妙な感覚に囚われた ── まるで分厚い百科事典を、無機質な声で朗読されているような気分だった。

彼は確かに多くのことを知っていた。しかし誰かの言葉に耳を傾けることはなく、問いかけにも「自分が知っている知識」の枠組みでしか応答しない。知識が架け橋となるどころか、むしろ見えない城壁を築いている。教養は彼にとって、弱点を見せないための鎧となっていた。長年ピエロの仮面を被り続けた者が、ついに素顔を失ってしまったように。彼自身、自らの本質を忘却の彼方に置き去りにしたのかもしれない。

リベラルアーツという言葉がある。直訳すると「自由な技芸」。ラテン語では artes liberales。

「自由人たるための技芸」というこの言葉の真意を知った時、私は衝撃を受けた。本来の教養とは、奴隷的思考から解放され、自らの頭で思索するための武器だったはずだ。

しかし現代の「教養」は変容した。SNS に溢れる教養人の発言は、思考を開くどころかむしろ檻となる。「正誤判定器」と化し、「読書履歴チェッカー」と変貌し、無知という「悪を裁く金槌」へと堕している。もはや自由への切符ではなく、「文化的パスポート」を持たない者を排除する検問所だ。知識の名のもとに、新たな差別構造が構築されている。

ぼくの知人に、農家をしている男がいる。 彼はたぶん、ヘーゲルもスピノザも知らない。でも、土と作物の話をするときの彼の目は、どんなインテリよりも知的だ。

「今日は朝露が長く残ってる。土がまだ冷たいから、苗は触らないほうがいい」

その言葉には、重みがある。読んだ書物の多寡からは滲み出てこない、何十年もの対話が染み込んだ「身体知」だ。土の匂いと共に刻まれた知恵だ。

教養とは、本来、そういうものではないだろうか。雄弁に語れるか否かではなく、世界と、そして他者と、どのように「関係を結ぶ」かという、静謐な態度そのものに宿る。

教養とはきわめて繊細なものだ。他者の言葉の襞に耳を澄ます謙虚な姿勢の中にのみ、微かな炎のように灯る。知識量の競争ではなく、態度の深さが問われるのだ。

だから教養を他人を殴打するハンマーにしてはならない。むしろ自分の無知を軽やかに嗤う、小さなユーモアであってほしい。「知らなかった、だから教えて」と言える勇気こそが、真の知的自由への第一歩だ。リベラルアーツの名を借りた知的暴力に、私はうんざりしている。そのハンマーを握る手をほどいて、誰かの手と繋ぐために開いてみてはどうだろうか。