アリとキリギリスとワイ


みなさん、没頭できる時間はありますか?

筆者は、学生時代から陸上部に所属していたのですが、やめたり再開したりを繰り返しながら、28 歳の現在も未だに陸上やマラソンを続けています。しかし、28 歳というのは激動の時代です。出世、転職、結婚子育てなどなど、人生においてレバレッジが効く時期なので、無策に過ごすにはもったいない時期です。

そして、そのような時期に趣味没頭することは果たしてどうなのか?というのが常に自問自答しているテーマです。しかしだからこそ、筆者は自分のやりたい趣味を続けることも同じぐらい価値があることだと思っています。

この話をするときに、私はアリとキリギリスを例に出します。

アリとキリギリスは、皆さんご存知だと思いますが、イソップ寓話の一つであり、夏の間にせっせと働いて冬に備えたアリと、遊んでばかりで冬の準備をしなかったキリギリスの対比を通じて、勤勉さや将来への備えの重要性を伝える話とされています。もちろん、勤勉に働くことの大切さは言うまでもありません。では、この場合アリは善で、キリギリスは悪なのでしょうか?勤勉さを忘れ、キリギリス一直線の筆者は狼狽えるしかないのでしょうか?

ここで、アリとキリギリスを勤勉さのための教訓を少し思想強めに解釈して、アリを資本主義、キリギリスをそのアンチテーゼとして考えてみましょう。

資本主義的なアリ
  • 労働を重視し、計画的に資産を築く
  • 冬(不況や老後)に備えた自己責任の精神
  • 「努力すれば報われる」という資本主義の価値観
資本主義へのアンチテーゼのキリギリス
  • 今を楽しむことに価値を置く
  • 資本主義で幸せとされる「努力」「貯蓄」とは別の幸福観を体現する
  • 生きる意味を「自己満足」や「瞬間の喜び」に見出す

このようにみることもできないでしょうか?実は、アリとキリギリスは、資本主義の限界を悟った反骨精神による批判文学なのではないかということです。つまり価値とまた別の価値観という、対比を行った問題作であるわけです(本当か?)。

また、かの有名な経済学者、カール・マルクスは言いました。

資本主義の労働は「生きるための手段」であり、「生きることそのもの」ではない。 と

なので、何が幸せかを追求しつづけることが至上命題なのではないでしょうか?筆者もお金があれば良いなと思うことは多々ありますが、よく晴れた日に陸上競技場でインターバルトレーニングをすることより生を実感する瞬間というものはなかなかありません。

じゃあ明日から仕事やめてくるわ!(´・_・`)

とはなりません。(´・_・`)

こうした話をしたときに、問いだけ残すのもなんだかフェアじゃない気がするので、隙自語なのですが、筆者はアリとキリギリスという極論をそれぞれ知った上での中庸が重要だと考えます。そして、極論の両端を知った上でバランスを取ること、価値観は善悪の二元論ではなくグラデーションであると理解することが、中庸を実現するために必要だと思います。

まとめると、アリとキリギリスを思想強めに解釈し、勤勉さだけが価値ではない多様な価値観が確かにあること、両極端な二元論で語るものではなく、極論を知ったうえで、いかに自分を人生の主役に据えられるバランスの取れたルールを導けるか、ということが重要であると、説かれているような気がしてならないのです。

短編:『蜘蛛』

「ワイはアリでもなければキリギリスでもない。ワイはワイや。」

28歳の男は、ランニングシューズを履きながらそう呟いた。彼の腕には青い光を放つ「351433」という識別コードが刻まれていた。キリギリス区画、351433番目の住人という意味だ。

世界は二種類の人間に分かれていた。毎日コツコツと働き、将来のために資産を貯めるアリ型人間と、今を楽しみ、明日のことは明日考えるキリギリス型人間だ。

男が住むキリギリス区画は、無秩序に建てられた色鮮やかな建物が立ち並び、壁には落書きが施され、至る所で音楽が鳴り響いていた。住人たちは明日の心配をせず、熱狂的に今日を生きていた。寿命を延ばす医療技術が進歩してもなお、平均寿命は40歳だった。「その日暮らし」が彼らの美学であり、誰も長期的な計画は立てなかった。それは「不自然」とされたからだ。

一方、高い壁の向こうにあるアリ区画は、灰色の整然としたタワーが立ち並び、監視カメラが行き交う人々を常に観察していた。アリ区画の住人は全員、黒い制服を着用し、30分ごとに健康状態を記録するバイオメトリックデバイスを装着していた。彼らの平均寿命は120歳。徹底した健康管理と計画的な生活により、老化のプロセスさえコントロールしていた。そこでは「無駄」は迫害の対象とされた。

政府は「社会の効率的運営」という名目で、7歳になった国民全員にAIによる「適性診断」を義務付け、結果によって一生の住む場所を決めていた。

男はキリギリスと診断されていた。なぜなら彼は質問に「楽しいことが好き」と答えたからだ。だが、彼の中には違和感があった。

「おかしいよな」男は走りながらいつも考えていた。毎朝5時に起き、二時間のランニングを終えると、彼は小さなノートに記録をつけた。「キリギリスとして生きろって言われてるのに、なんでワイは走ることを計画的に続けてるんやろ?目標のタイムに向けて、毎日の練習メニューを組んで、記録つけて。これってキリギリスちゃうやろ」

彼のアパートの壁には、過去5年分のトレーニング記録が貼られていた。キリギリス区画の検査官が来たときは慌てて隠した。彼は走ることが好きだった。だが、同時に計画的に記録を残すことも好きだった。

「でもアリかって言われたら、そうでもない。ワイは走ることが楽しいから走っとるんや。アリたちは将来のためにコツコツ準備をするけど、今を楽しむことをせえへん。ワイはどっちなんやろ…いや、ワイはワイや。決めつけられへん」

ある日、好奇心に負けた男は、禁じられていたアリ区画との境界線を越えた。そこで彼は一人のアリ型の女性と出会った。彼女は「ANT-F-04-1287-5623-21A」の識別コードを腕に刻まれ、公園の片隅で秘密裏に絵を描いていた。それは規則違反だった。アリ区画では芸術活動は「不要な感情表現」として厳しく制限されていた。

「なぜ絵を?」男は尋ねた。

「心が求めるから」彼女は答えた。彼女の絵は秩序だった線と色彩で構成されていたが、どこか自由な印象があった。

「私の隣人は私を通報すべきだと言うわ。創造的活動は生産性を下げるから」

「こっちじゃ好きなことやって当然なのに」男は不思議に思った。

「でも、あなたは走ってるのね」彼女はランニングシューズを指差した。

「キリギリスが規則正しく運動するなんて」

翌日、女性は男の住む区画を訪れた。男のアパートに足を踏み入れた彼女は、壁一面のトレーニング記録を見て驚いた。

「なぜそんなに計画的に?」女性は尋ねた。

「心が求めるから」男は女性の言葉をそのまま返した。

二人は気づいた。アリとキリギリスの区別は人工的なものだということを。人間の心は複雑で、時にアリのように計画的に、時にキリギリスのように自由に生きたいと願っている。

男と女性は秘密の組織「蜘蛛」を結成した。クモは巣を計画的に張るが、環境に応じて形を変える。獲物を捕らえるために忍耐強く待つが、チャンスを見極めて素早く行動する。クモは夏も冬も姿を消さず、ただ自らの本能と計算に従って生きている。

蜘蛛の巣のように、彼らのネットワークは静かに、急速に広がっていった。後に「蜘蛛の糸」と呼ばれたこのネットワークは、アリ区画の詩人、キリギリス区画の起業家、どちらにも分類できない思想家たちを強固に結びつけた。彼らは双方の区画の境界線で秘密の集会を開き、「第三の生き方」について語り合った。

ある者は「計画的な喜び」を、またある者は「自由な規律」を模索した。一人一人が自分なりの「巣」を張り始めた。

3年後、「蜘蛛」の影響は社会の隅々にまで及んでいた。最初の変化は適性診断そのものから始まった。診断の質問項目に「計画的に楽しむことはできますか?」「自由な中にも規律を見出せますか?」といった新たな選択肢が加わったのだ。そして診断結果に「混合型」という新しいカテゴリーが登場した。

政府は表向き「社会進化に適応した制度改革」と発表したが、実際には「蜘蛛」の思想が官僚の中にも浸透していたのだ。やがて区画間の移動が条件付きで許可され、18歳で「再診断」を受ける権利も認められた。

そして昨年、ついに「混合区画」という第三の居住地が公式に認可された。かつての境界線地帯に建設されたその街では、強制的な区分けなしに多様な生き方が認められた。革命でも暴動でもなく、自然な進化として、適性診断制度は形骸化していった。

人はみな、アリでもなく、キリギリスでもなく、自分自身の道を選ぶ自由を持っている。

「ワイはアリでもなければキリギリスでもない。ワイはワイや。」 34歳になった男は、ランニングシューズを履きながらそう呟いた。